大学生の時にオートバイレースを始めた。当時は男子大学生ならほぼ間違いなくオートバイか車に熱中した。アルバイト代の全てを突っ込み、勉学そっちのけでレースに打ち込んだ。しかし、筋萎縮側索硬化症(ALS)になってからも、情熱を傾けられるとは思ってもいなかった。

(三次市のモトクロス場)
以前なら考えられないところで転倒したり、ジャンプ中にステップから足が外れそうになったりしても続けていたレース。真剣な勝負をしていたおかげでたくさんの友達ができた。私がALSになったことを知った仲間が「広島でかつて行われていたオートバイレースの記録を残してみないか」と勧めてくれた。
レース史の編さんが大きな目標になるとは、すぐにはピンとこなかった。だが仕事の後片付けが一段落付くと早速取り掛かってみた。病状の進行期と重なったため、病状に応じた工夫をしながらの取材と資料集めとなった。第一に本がめくれない。ぱらぱらと読み進められないことが、どんなに歯がゆいか。結局、ヘルパーさんに片っ端からスキャンしてもらって、視線入力パソコンで読んだ。
伝説のライダーやご家族への取材は、思うように声が出せないので妻に電話でアポイントを取ってもらった。車いすで出向き、思うようにしゃべれない私にも戸惑ったことだろう。取材の要点をパソコンでまとめて妻に代読してもらうなど、元気な頃には考えられない苦労だ。「あぁ、元気ならすぐにできるのに~。ALSが憎い」と漏れる。すかさず妻に「本を書く仕事はALSのおかげでしょ!」と尻をたたかれた。
取材を進めるうちに広島県が、全国有数のモータースポーツ先進地だったことが分かった。大正から昭和の初め、広島市に存在したオートバイメーカーが1200ccの大型車を製造し、その技術は現在のマツダへ継承された。チチヤスは、会社を挙げてオートバイレースに取り組み、好成績を収めていた。
米国から輸入されたハーレーも広島のレースで優勝を飾っていた。そして、何といっても驚くべきは、広島ではオートバイレースが数万人の観客を集め、市民の身近な娯楽として定着していたことだ。こりゃあ楽しくなってきたぞ~!
<中国新聞 2019年(令和元年)5月29日(水曜日)掲載>